top of page

少年Aにこの社会で生きていく居場所はないのだろうか

  • 2015年6月15日
  • 読了時間: 3分

『絶歌』が出版され話題になっている。 「自己弁護だけで気分が悪い」「本名を名乗って書くべきだ」「こんな本を書くなら被害者の家に行って土下座してあやまれ」「自分の犯した罪をドラマ化し、贖罪の意識がない」「こんな本は出すべきでない」「この本で印税をもらうのは許せない」などなどマスコミでは一方的に叩かれている。かろうじて、評論家の木村太郎は、「私はこの本は読まない」としながら、「本を出す自由はある。そのことまでを否定することはできない」と言っていた。 こんな中で『絶歌』を読んだ率直な感想が出しにくくなっている。少年院で関わった人たちや、精神科医師の方たちの反応を聞きたいものだ。 私の読んだ感想は、「少年Aにこの社会で生きていく居場所はないのだろうか」というものであった。『絶歌』には、少年Aが2004年に少年院を仮退院してからの11年間の生活が書かれている。いつも自分が少年Aであることがわかられないかにおびえ、ひとり孤立して自己に閉じこもって生きてきた様が書き綴られている。読んでいて饒舌なところはあるが、嘘は書いていないように読めた。自己弁護的にも読めなかった。 彼は日本の法治社会の手続きを経て、この社会で再び生きていくことを許されたのではなかったか。しかし、現実には、彼には少年Aとして自分を隠してしか生きていけなかった。だから一人の人間として、どういわれようとも「生きたい」という叫びはわかるようなきがする。その意味では『絶歌』を本名で書いた方がよかったのかもしれない。  『絶歌』のあとがき「被害者のご家族の皆様へ」を書いている。かれは、11年間、「この社会の中で、罪を背負って生きられる居場所を、僕はとうとう見つけることができませんでした」と書き、次のように綴っている。 「二人の人間の命を奪っておきながら、『生きたい』などと口にすること自体、言語道断だと思います。頭ではそれを理解していても、自分には生きる資格がないと自覚すればするほど、自分が死に値する人間であると実感すればするほど、どうしようもなく、もうどうしようもなく、自分でも嫌になるくらい、『生きたい』『生きさせてほしい』と願ってしまうのです。みっともなく、厭ったらしく、『生』を渇望してしまうのです。どんなに惨めな状況にあっても、とにかっく、ただ生きて、呼吸していたいと願う自分がいるのです」

被害者の方からすれば、このエゴイズムは許しがたいのだろう。 しかし、日本の社会は、少年Aに本名で生きていくことを許していただろうか。少年Aが自死すれば私たちの社会は彼を許すのだろうか。二人の大切な命を奪った犯罪者は、医療少年院で再生の道を歩み始め、そこに働く専門家の人たちの治療をうけ、社会復帰を認められた。その犯罪者に、日本の社会でどう生きたらいいのか、私も含め語ってあげることができない。その問いにどう答えるのか、その重い問いが提起されているのではないだろうか。私ももう少し考えていきたい。


 
 
 

コメント


© 2015 Shirou Murayama official web.

  • Facebook Basic Black
  • Twitter Basic Black
  • Google+ Basic Black
bottom of page