川崎・中1殺害事件で何が解明されなければならないか
- 2015年6月15日
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川崎市で中1の上村遼太(13)君が何者かに殺害され、多摩川の河川敷に放置された事件である。全裸で放置された少年には無数の切り傷があった。死因は、出血性ショック死である。衣類は近くの公衆トイレで焼かれていた。凶器は工業用カッターナイフの他にも別の刃物が使用されたのではないかと見られている。上村君は、他校の上級生仲間に暴力を受けていたとみられており、今年に入ってからは一度も学校に通学していなかった。 3月27日になって神奈川県警は18才と2人の17才の少年を殺人容疑で逮捕した。最初は3人とも容疑を否認していたが、1日になって、18才の容疑者は、殺害を認める供述を始めている。17才の2人も関わりを供述し初め、3人の供述の食い違いを埋めていく作業にとりかかっている。
この事件は、ラインなどの交流手段が大人から子どもたちの姿を見えにくくしていること、学校や地域社会がもっと子どもたちへの目を丁寧にそそがなければいけなかったという点が議論され始めている。それはそれで大切なことである。 しかし、3人の少年が上村君を殺害してしまう残忍性をどう見るのかを議論していかなければならないのではないか。 私には「いじめ殺害事件」にみえる。 第一に、少年たちが繰り広げた惨劇は、古典的な暴力的いじめと重なる部分が多いことである。84年の青森。野辺地中学の熊沢憲君のいじめ自殺では、学校だけでなく、地域の少年集団からも暴力的いじめを受けていた。お金も取られていた。上村君が万引きを断ったことが暴力をうけた一つのきっかけになったと伝えられているが、これまでの多くのいじめ事件に万引きの強要は数多く出てくる。 今日の子どもたちを見ていく場合に、いじめと学校内の生徒間暴力などを注意深く区分けしながらも、その重なる側面を見のがさない捉え方が求められているというのは、筆者の90年代からの主張である。大津の中学校のいじめ自殺事件で、学校がいじめを見のがしたのは、いじめがあっても、それを暴力と見なして、生徒間暴力といじめを区別して。いじめとして捉えなかったことにあった。 第二は、18才の少年は、酒を飲むと、酒に酔うたびに「人を殺したい」と口にしていたという。佐世保の「誰かを殺してみたい」殺人事件とは性格を異にしているが、上村君や他の少年たちへの暴力を繰り返す中で、「人を殺してみたい願望」が形作られていったと考えられる。筆者は、大津のいじめ自殺事件を分析した『いじめで遊ぶ子どもたち』のなかで、近年のいじめ特徴として、「いじめを執拗に繰り返しながら自殺に追い込もうとする意図が見えることです。それがゲーム感覚でおこなわれているところに、近年のいじめの特徴があります」(17)と述べた。上村君を殺害した3人の少年たちも暴力的いじめを繰り返しながら、「殺してみたい」願望を持ち始めていったと見ることができる。 これから、18才少年の生い立ちや学校時代のことが少しずつ明らかなイなっていくだろう。産経新聞(3月3日)は次のように報じている。 「人を殺したい」。飲酒のたびにこう話していたという少年は、弱い者いじめを繰り 返し、周囲から疎まれる中で、暴力性をエスカレートさせていた。複数の知人らへの取 材からは、「孤独」と「凶暴」という二面性が浮かび上がる。 「小、中学校のころは、よく弱い者いじめをしていた。同級生の弱い子を殴り、他の 子から『何やってんだよ』と注意されたこともあった」 18歳の少年と小中学校で同級だった少年(18)は、こう証言する。 中学校は休みがちで、部活動もしていなかった。多くの生徒がいる前ではおとなしく、 「どちらかというと目立たない感じ。友人はあまりいなかった」という。 少年を知る女性は、「中学1年のころ、気の弱い男子生徒を理不尽な理由でボコボコ にして、そこからだんだんと孤立していった」と話す。 弱い者いじめをする姿が反感を買ったのか、同学年の友人は少なかったという。最近 は常に2、3人の中学生を引き連れていた。 孤独を深める一方で、その“牙”はしばしば、周囲に目撃されていた。エアガンや警 棒を持ち歩き、ハトを撃ったりしたこともあった。 ほんの少しであるが見え始めた18才少年の成育過程に、残忍性が生まれていく必然性をどうみていくか、そこに事件解明の核心がある。 学校や教育委員会ではさまざま対策が取られようとしている。神奈川新聞は市教委の再発防止への検証委員会を立ち上げた。そこでは「SOSをどうキャッチ」が当面検討され行くらしい。そのことも大事なことである。しかし、この事件において、多くの人が理解できないといっているのは、少年たちの「残忍さ」がどこから生まれてきたいのかではないだろうか。18才少年の「孤独」と「狂暴」がどのような生活の中で形作られたのか、そこを解き明かすことことこそ問題の本質に近づくことになるのではにだろうか。


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